実力 ≠ 学歴

 今の日本における学歴というものは、どう考えても実践力はつかないであろうクイズを他人よりもたくさんこなせるようになることを競うものだ。誰かさんが大事だと主張するどうでもいいかもしれない問題をこなす奴が優秀だとされるのだ。こんなのおかしいし、必要ない。なによりもやりたくない。
 本来勉強が嫌いではなくても、このクイズをやらされることが自分にとって意味が無いと思っている者は、義務教育の段階で「勉強」が嫌いになってしまう。自分はこの承認課題をやりたくないのだから、世間は自分を認めないのだと思ってしまう。この、本来なら別にやらなくてもいいクイズ大会に、同調性圧力や親の指示等で半強制的に参加させられていることで、どれだけの効率的な学習時間が世の中から奪われているだろうか。ちなみに、日本における「義務教育」とは、子供が教育を受けに行かなければならない義務、ではなく、子供がどうしても行きたいと言った時に親が義務教育機関へ通わせる義務、のことであることを、子供に正しく伝えていない親は多く、行くのが当たり前だと嫌がる子供でも通わせているのが実態だろう。
 やりたいことや興味から勉強を始め、その中でどのような知識や教養が必要なのか分かってくる。そして自分に必要なもの、又はそれ以外のことも身につける強い動機となる。これが学ぶということだ。
 何の意味があるのか分からない退屈なクイズをこなすことが自分への評価の全てだと思っている人間が、自然な動機で学び続けた人間より、なんでも優れた能力が備わっているのだろうか。実際そのようなことはない。中には点取りタイプだが創造的な人も居り、このタイプは非常に尊敬するが、特異だ。

 私は過去に、世に言う一流大学で理工学博士を取った人物からの、自分に対する理不尽な批判を論破したことがある。これは自慢ではない。その博士は、私の出した数理を含む方法論を理解して評価しなければならない立場だったが、おそらく私の論が理解できなかった。理解するための材料を与えて半年ほどの期間があり、他の学識者の中には理解できていたものも居たようだが、当事者であるその者はどうやら理解できていなかった様なのだ。
 その博士が苦し紛れに口から放った言葉はなんと、それは本当に自分で考えたのか、だった。他の者もいる中で信じられない発言だったが、同時にある種の勝利を得たと感じた。

 世の中(日本国内)に出て周りを見て分かったことは、それなりの承認課題と呼ばれるものを一応クリアしてきた者達が、実は重要な事などなにも解決できない者がほとんどだということだ。いや、それ以前に基礎学力すら怪しい。英語力も大してないし、なにより手作業じゃなくて良い作業を自動化もせずに手作業で行っていることが多く、その点を弱みとして叩かれないために、虚勢やパワハラでごまかそうとしている者のなんと多いことか。
 ご大層な教育プログラムで出来上がってくるほとんどの人材がこの様なものなのだと目の当たりにした時、この国が半強制している教育プログラムは完全に失敗であると確信した。日本の教育システムの途中にある承認課題などというものは、大事なことは何も教えてくれない無能な教師どもが考えた面倒で退屈なものに過ぎない。実践力を付けるためには、ネットで情報をあさり、時には図書館で本をあさり、自分の部屋でチマチマとそれらを読み、読んで得た知識からまたチマチマと試行をするというループを繰り返すことなのだ。